59回目の終戦記念日に

今日、59回目の終戦記念日を迎えた。
昔、「敗戦」ではなく「終戦」とされている意味をどこかで聞いたことがあるが、内容は忘れてしまった。
ただ、「戦争が終わった。もう爆弾から逃げ回ったり、戦場に行く必要はないんだ」という解放感を、「終戦」という言葉から感じるのは間違っているだろうか。
さて、折しもオリンピックが開かれている。オリンピック誕生の地、アテネで。
第1回目の開催から、「オリンピック停戦」というのがあって、開催中はお互いに戦いはやめ、このスポーツの祭典を開き続けてきたそうだ。これが五輪の精神の根本なのだろう。
僕は「開会式」を見るのが好きで、今回も録画をしておいたのだが、設定を間違っていて録れず(:_;)
いろんなメディアでその様子を見聞きし、感動したのが、イラクの選手団が入場したシーン。
観客が次々と立ち上がって、拍手をする様は、これがオリンピックだと改めて心に刻んだのだった。
かたや、この日本では普天間米軍基地の軍用機が、隣接する大学に墜落し、幸い死傷者は出なかったものの、赤ちゃんの寝ていた1m先に部品が落ちてきたそうな。
なのに、一国のリーダーである男は、抗議の声さえあげない。
日本の警察は捜査に立ち入ることもできず、マスコミの取材も拒否されている。
これが独立国「日本」なのか。
59回目の終戦記念日に、先の大戦で犠牲になった2300万人の人たちは、今の日本をどういう思いで見ているのだろうか。


最近の日本は、本当に変な方向に向かっている。
武器輸出三原則の見直しまで言及し始め、靖国参拝をやめず、憲法の改正まで明言する…
与党だけでなく、「野党」第1党の党首まで同じ。
アメリカの高官が「日本が国連の安保委常任理事国入りしたいのなら、『9条改正』が必要」と発言し、憲法改正が「アメリカの要求」のもとで進められているのは、明らかになってきている。
イラクへの武力行使だって、国連加盟国191カ国のうち142カ国が反対している。
世界的にはアメリカも日本も孤立への道を進んでいるのだ。
この国に住んでいたら、見えないことが多すぎる。
いや、見えなくされているのだろう。
先に述べたオリンピックの過去の開会式で、印象に残っているのはシドニーでオーストラリア国歌が演奏されたときのこと。
歌詞を国民から募集し、最後は国民投票をして決めたと言うその歌を、誇らしげに歌う人たち…
うらやましく思った。
こんなふうに作られた国歌なら、僕も喜んで胸を張って歌うだろう。
この国を愛すること。
そのためには、この国の進路の決定に自分も参加し、自由に討論でき、異議申し立てもできることが大切だと思う。
その中で、本当の「愛国心」が育つのだと思う。
59回目の終戦記念日に、僕が考えたことだ。

5 個のコメント

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  1. 8/15用エントリー

    日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する…

  2. 「愛国心が焦点」、という時代になったのか・・・

    最近思うところがあって地元の新聞を購読することにした。この数年、ニュースはネットで十分と思ってきたのだが、久しぶりに毎朝ポストに届けられる新聞というものを手にとり読むととても新鮮な感じがする。半年余り禁煙していて再び最初にタバコの煙を吸ったときのような…

  3. 日本的である事

    戦後の価値観を覆す動きが活発化してきた。 憲法を筆頭に敗戦を機に取り入れられた価

  4. はじめまして
    トラックバック有難うございました。
    以前オーストラリアを旅行し、キャンベラの国会議事堂を見学した際に、芝に覆われた丘に埋め込まれたように造られた建物はその芝(つまり国会議事堂の上)で国民がくつろげるようにとの考えがあると聞いたのを思い出しました。

  5. わざわざお越しくださり、ありがとうございます。
    オーストラリアの国会議事堂のお話、興味深く読みました。
    日本の国会を見たことがありますが、赤絨毯の上を歩いて、「先生」と呼ばれ、いつも周りに護衛がついている…
    これでは、一般人と感覚が狂ってくるでしょうね。
    選ばれたから、国会議員になっているだけで、選んだ国民の側の方に主権があるのにね。
    これをご縁に、これからもよろしくお願いいたします。

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